三島由紀夫“葉隠入門”より

2

“葉隠”の恋愛は忍恋(しのぶこひ)の一語に尽き、打ちあけた恋はすでに恋のたけが低く、もしほんたうの恋であるならば、一生打ちあけない恋が、もつともたけの高い恋であると断言してゐる。アメリカふうな恋愛技術では、恋は打ちあけ、要求し、獲得するものである。恋愛のエネルギーはけつして内にたわめられることがなく、外へ外へと向かつて発散する。しかし、恋愛のボルテージは、発散したとたんに滅殺されるといふ逆説的な構造をもつてゐる。現代の若い人たちは、恋愛の機会も、性愛の機会も、かつての時代とは比べものにならぬほど豊富に恵まれてゐる。しかし、同時に現代の若い人たちの心の中にひそむのは恋愛といふものの死である。もし、心の中に生まれた恋愛が一直線に進み、獲得され、その瞬間に死ぬといふ経過を何度もくり返してゐると、現代独特の恋愛不感症と情熱の死が起こることは目にみえてゐる。若い人たちがいちばん恋愛の問題について矛盾に苦しんでゐるのは、この点であるといつていい。三島由紀夫“葉隠入門”より

3

かつて、戦前の青年たちは器用に恋愛と肉欲を分けて暮らしてゐた。大学にはいると先輩が女郎屋へ連れて行つて肉欲の満足を教へ、一方では自分の愛する女性には、手さへふれることをはばかつた。そのやうな形で近代日本の恋愛は、一方では売淫行為の犠牲のうへに成り立ちながら、一方では古いピューリタニカルな恋愛伝統を保持してゐたのである。しかし、いつたん恋愛の見地に立つと、男性にとつては別の場所に肉欲の満足の犠牲の対象がなければならない。それなしには真の恋愛はつくり出せないといふのが、男の悲劇的な生理構造である。“葉隠”が考へてゐる恋愛は、そのやうななかば近代化された、使ひ分けのきく、要領のいい、融通のきく恋愛の保全策ではなかつた。そこにはいつも死が裏づけとなつてゐた。恋のためには死ななければならず、死が恋の緊張と純粋度を高めるといふ考へが“葉隠”の説いてゐる理想的な恋愛である。三島由紀夫“葉隠入門”より

4

おそるべき人生知にあふれたこの著者(山本常朝)は、人間が生だけによつて生きるものではないことを知つてゐた。彼は、人間にとつて自由といふものが、いかに逆説的なものであるかも知つてゐた。そして人間が自由を与へられるとたんに自由に飽き、生を与へられるとたんに生に耐へがたくなることも知つてゐた。現代は、生き延びることにすべての前提がかかつてゐる時代である。平均寿命は史上かつてないほどに延び、われわれの前には単調な人生のプランが描かれてゐる。青年がいはゆるマイホーム主義によつて、自分の小さな巣を見つけることに努力してゐるうちはまだしも、いつたん巣が見つかると、その先には何もない。あるのはそろばんではじかれた退職金の金額と、労働ができなくなつたときの、静かな退職後の、老後の生活だけである。戦後一定の理想的水準に達したイギリスでは、労働意欲が失はれ、それがさらには産業の荒廃にまで結びついてゐる。三島由紀夫“葉隠入門”より

5

しかし、現代社会の方向には、社会主義国家の理想か、福祉国家の理想か、二つに一つしかないのである。自由のはてには福祉国家の倦怠があり、社会主義国家のはてには自由の抑圧があることはいふまでもない。人間は大きな社会的なヴィジョンを一方の心で持ちながら、そして、その理想へ向かつて歩一歩を進めながら、同時に理想が達せられさうになると、とたんに退屈してしまふ。他方では、一人一人が潜在意識の中に、深い盲目的な衝動をかくしてゐる。それは未来にかかはる社会的理想とは本質的にかかはりのない、現在の一瞬一瞬の生の矛盾にみちたダイナミックな発現である。青年においては、とくにこれが端的な、先鋭な形であらはれる。また、その盲目的な衝動が劇的に対立し、相争ふ形であらはれる。青年期は反抗の衝動と服従の衝動とを同じやうに持つてゐる。これは自由への衝動と死への衝動といひかへてもよい。その衝動のあらはれが、いかに政治的な形をとつても、その実それは、人間存在の基本的な矛盾の電位差によつて起こる電流のごときものと考へてよい。三島由紀夫“葉隠入門”より

6

戦時中には、死への衝動は100パーセント解放されるが、反抗の衝動と自由の衝動と生の衝動は、完全に抑圧されてゐる。それとちやうど反対の現象が起きてゐるのが戦後で、反抗の衝動と自由の衝動と生の衝動は、100パーセント満足されながら、服従の衝動と死の衝動は、何ら満たされることがない。十年ほど前に、わたしはある保守系の政治家と話したときに、日本の戦後政治は経済的繁栄によつて、すくなくとも青年の生の衝動を満足させたかもしれないが、死の衝動についてはつひにふれることなく終はつた。しかし、青年の中に抑圧された死の衝動は、何かの形で暴発する危険にいつもさらされてゐると語つたことがある。トインビーが言つてゐることであるが、キリスト教がローマで急に勢ひを得たについては、ある目標のために死ぬといふ衝動が、渇望されてゐたからであつた。パックス・ロマーナの時代に、全ヨーロッパ、アジアにまで及んだローマの版図は、永遠の太平を享楽してゐた。三島由紀夫“葉隠入門”より

7

現代社会では、死はどういふ意味を持つてゐるかは、いつも忘れられてゐる。いや、忘れられてゐるのではなく、直面することを避けられてゐる。ライナ・マリア・リルケは、人間の死が小さくなつたといふことを言つた。人間の死は、たかだか病室の堅いベッドの上の個々の、すぐ処分されるべき小さな死にすぎなくなつてしまつた。そしてわれわれの周辺には、日清戦争の死者をうはまはるといはれる交通戦争がたえず起こつてをり、人間の生命のはかないことは、いまも昔も少しも変はりはない。ただ、われわれは死を考へることがいやなのである。死から何か有効な成分を引き出して、それを自分に役立てようとすることがいやなのである。われわれは、明るい目標、前向きの目標、生の目標に対して、いつも目を向けてゐようとする。そして、死がわれわれの生活をじよじよにむしばんでいく力に対しては、なるたけふれないでゐたいと思つてゐる。三島由紀夫“葉隠入門”より

8

このことは、合理主義的人文主義的思想が、ひたすら明るい自由と進歩へ人間の目を向けさせるといふ機能を営みながら、かへつて人間の死の問題を意識の表面から拭ひ去り、ますます深く潜在意識の闇へ押し込めて、それによる抑圧から、死の衝動をいよいよ危険な、いよいよ爆発力を内攻させたものに化してゆく過程を示してゐる。死を意識の表へ連れ出すといふことこそ、精神衛生の大切な要素だといふことが閑却されてゐるのである。しかし、死だけは、“葉隠”の時代も現代も少しも変はりなく存在し、われわれを規制してゐるのである。その観点に立つてみれば、“葉隠”の言つてゐる死は、何も特別なものではない。毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いはば同じことだといふことを“葉隠”は主張してゐる。われわれはけふ死ぬと思つて仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない。三島由紀夫“葉隠入門”より

9

西欧ではギリシャ時代にすでにエロース(愛)とアガペー(神の愛)が分けられ、エロースは肉欲的観念から発して、じよじよに肉欲を脱してイデアの世界に参入するところの、プラトンの哲学に完成を見いだした。一方アガペーは、まつたく肉欲と断絶したところの精神的な愛であつて、これは後にキリスト教の愛として採用されたものである。日本人本来の精神構造の中においては、エロースとアガペーは一直線につながつてゐる。もし女あるひは若衆に対する愛が、純一無垢なものになるときは、それは主君に対する忠と何ら変はりない。このやうなエロースとアガペーを峻別しないところの恋愛観念は、幕末には“恋闕の情”といふ名で呼ばれて、天皇崇拝の感情的基盤をなした。いまや、戦前的天皇制は崩壊したが、日本人の精神構造の中にある恋愛観念は、かならずしも崩壊してゐるとはいへない。それは、もつとも官能的な誠実さから発したものが、自分の命を捨ててもつくすべき理想に一直線につながるといふ確信である。三島由紀夫“葉隠入門”より

10

一方では、死ぬか生きるかのときに、すぐ死ぬはうを選ぶべきだといふ決断をすすめながら、一方ではいつも十五年先を考へなくてはならない。十五年過ぎてやつとご用に立つのであつて、十五年などは夢の間だといふことが書かれてゐる。これも一見矛盾するやうであるが、常朝の頭の中には、時といふものへの蔑視があつたのであらう。時は人間を変へ、人間を変節させ、堕落させ、あるひは向上させる。しかし、この人生がいつも死に直面し、一瞬一瞬にしか真実がないとすれば、時の経過といふものは、重んずるに足りないのである。重んずるに足りないからこそ、その夢のやうな十五年間を毎日毎日これが最後と思つて生きていくうちには、何ものかが蓄積されて、一瞬一瞬、一日一日の過去の蓄積が、もののご用に立つときがくるのである。これが“葉隠”の説いてゐる生の哲学の根本理念である。三島由紀夫“葉隠入門”より

11

“葉隠”は、一面謙譲の美徳をほめそやしながら、一面人間のエネルギーが、エネルギー自体の原理に従つて、大きな行動を成就するところに着目した。もし、謙譲の美徳のみをもつて日常をしばれば、その日々の修行のうちから、その修行をのり越えるやうな激しい行動の理念は出てこない。それが大高慢にてなければならぬといひ、わが身一身で家を背負はねばならぬといふことの裏づけである。彼はギリシャ人のやうにヒュブリス(傲慢)といふものの、魅惑と光輝とそのおそろしさをよく知つてゐた。男の世界は思ひやりの世界である。男の社会的な能力とは思ひやりの能力である。武士道の世界は、一見荒々しい世界のやうに見えながら、現代よりももつと緻密な人間同士の思ひやりのうへに、精密に運営されてゐた。忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかはりに、無料の忠告なら湯水のごとくそそいで惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめつたになく、人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、恨みをかふことに終はるのが十中八、九である。三島由紀夫“葉隠入門”より

12

思想は覚悟である。覚悟は長年にわたつて日々確かめられなければならない。長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、時期はかならずしも選ぶことができない。それは向かうからふりかかり、おそつてくるのである。そして生きるといふことは向かうから、あるひは運命から、自分が選ばれてある瞬間のために準備することではあるまいか。戦士は敵の目から恥づかしく思はれないか、敵の目から卑しく思はれないかといふところに、自分の対面とモラルのすべてをかけるほかはない。自己の良心は敵の中にこそあるのである。いつたん行動原理としてエネルギーの正当性を認めれば、エネルギーの原理に従ふほかはない。獅子は荒野のかたなにまで突つ走つていくほかはない。それのみが獅子が獅子であることを証明するのである。三島由紀夫“葉隠入門”より

13

合理的に考へれば死は損であり、生は得であるから、だれも喜んで死へおもむくものはゐない。合理主義的な観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによつて、あたかも普遍性を獲得したやうな錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまふ。常朝がたえず非難してゐるのは、主体と思想との間の乖離である。“強み”とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである。いまの恋愛はピグミーの恋になつてしまつた。恋はみな背が低くなり、忍ぶことが少なければ少ないほど恋愛はイメージの広がりを失ひ、障害を乗り越える勇気を失ひ、社会の道徳を変革する革命的情熱を失ひ、その内包する象徴的意味を失ひ、また同時に獲得の喜びを失ひ、獲得できぬことの悲しみを失ひ、人間の感情の広い振幅を失ひ、対象の美化を失ひ、対象をも無限に低めてしまつた。恋は相対的なものであるから、相手の背丈が低まれば、こちらの背丈も低まる。かくて東京の町の隅々には、ピグミーたちの恋愛が氾濫してゐる。三島由紀夫“葉隠入門”より

14

エゴティズムはエゴイズムとは違ふ。自尊の心が内にあつて、もしみづから持すること高ければ、人の言行などはもはや問題ではない。人の悪口をいふにも及ばず、またとりたてて人をほめて歩くこともない。そんな始末におへぬ人間の姿は、同時に“葉隠”の理想とする姿であつた。いまの時代は“男はあいけう、女はどきよう”といふ時代である。われわれの周辺にはあいけうのいい男にこと欠かない。そして時代は、ものやはらかな、だれにでも愛される、けつして角だたない、協調精神の旺盛な、そして心の底は冷たい利己主義に満たされた、さういふ人間のステレオタイプを輩出してゐる。“葉隠”はこれを女風といふのである。“葉隠”のいふ美は愛されるための美ではない。体面のための、恥づかしめられぬための強い美である。愛される美を求めるときに、そこに女風が始まる。それは精神の化粧である。“葉隠”は、このやうな精神の化粧をはなはだにくんだ。現代は苦い薬も甘い糖衣に包み、すべてのものが口当たりよく、歯ごたへのないものがもつとも人に受け入れられるものになつてゐる。三島由紀夫“葉隠入門”より

19

常朝は、この人生を夢の間の人生と観じながら、同時に人間がいやおうなしに成熟していくことも知つてゐた。時間は自然に人々に浸み入つて、そこに何ものかを培つていく。もし人がけふ死ぬ時に際会しなければ、そしてけふ死の結果を得なければ、容赦なくあしたへ生き延びていくのである。一面から見れば、二十歳で死ぬも、六十歳で死ぬも同じかげろふの世であるが、また一面から見れば二十歳で死んだ人間の知らない冷徹な人生知を、人々に与へずにはおかぬ時間の恵みであつた。それを彼は“御用”と呼んでゐる。彼にとつて身養生とは、いつでも死ねる覚悟を心に秘めながら、いつでも最上の状態で戦へるやうに健康を大切にし、生きる力をみなぎり、100パーセントのエネルギーを保有することであつた。ここにいたつて彼の死の哲学は、生の哲学に転化しながら、同時になほ深いニヒリズムを露呈していくのである。三島由紀夫“葉隠入門”より

20

“葉隠”の死は、何か雲間の青空のやうなふしぎな、すみやかな明るさを持つてゐる。それは現代化された形では、戦争中のもつとも悲惨な攻撃方法と呼ばれた、あの神風特攻隊のイメージと、ふしぎにも結合するものである。神風特攻隊は、もつとも非人間的な攻撃方法といはれ、戦後、それによつて死んだ青年たちは、長らく犬死の汚名をかうむつてゐた。しかし、国のために確実な死へ向かつて身を投げかけたその青年たちの精神は、それぞれの心の中に分け入れば、いろいろな悩みや苦しみがあつたに相違ないが、日本の一つながりの伝統の中に置くときに、“葉隠”の明快な行動と死の理想に、もつとも完全に近づいてゐる。人はあへていふだらう。特攻隊は、いかなる美名におほはれてゐるとはいへ、強ひられた死であつた。志願とはいひながら、ほとんど強制と同様な方法で、確実な死のきまつてゐる攻撃へかりたてられて行つたのだと……。それはたしかにさうである。では、“葉隠”が暗示してゐるやうな死は、それとはまつたく違つた、選ばれた死であらうか。わたしにはさうは思はれない。三島由紀夫“葉隠入門”より

21

“葉隠”は一応、選びうる行為としての死へ向かつて、われわれの決断を促してゐるのであるが、同時に、その裏には、殉死を禁じられて生きのびた一人の男の、死から見放された深いニヒリズムの水たまりが横たはつてゐる。人間は死を完全に選ぶこともできなければ、また死を完全に強ひられることもできない。たとへ、強ひられた死として極端な死刑の場合でも、精神をもつてそれに抵抗しようとするときには、それは単なる強ひられた死ではなくなるのである。また、原子爆弾の死でさへも、あのやうな圧倒的な強ひられた死も、一個人一個人にとつては運命としての死であつた。われわれは、運命と自分の選択との間に、ぎりぎりに追ひつめられた形でしか、死に直面することができないのである。そして死の形態には、その人間的選択と超人間的運命との暗々裏の相剋が、永久にまつはりついてゐる。ある場合には完全に自分の選んだ死とも見えるであらう。自殺がさうである。ある場合には完全に強ひられた死とも見えるであらう。たとへば空襲の爆死がさうである。三島由紀夫“葉隠入門”より

22

しかし、自由意思の極致のあらはれと見られる自殺にも、その死へいたる不可避性には、つひに自分で選んで選び得なかつた宿命の因子が働いてゐる。また、たんなる自然死のやうに見える病死ですら、そこの病死に運んでいく経過には、自殺に似た、みづから選んだ死であるかのやうに思はれる場合が、けつして少なくない。“葉隠”の暗示する死の決断は、いつもわれわれに明快な形で与へられてゐるわけではない。“葉隠”にしろ、特攻隊にしろ、一方が選んだ死であり、一方が強ひられた死だと、厳密にいふ権利はだれにもないわけなのである。問題は一個人が死に直面するといふときの冷厳な事実であり、死にいかに対処するかといふ人間の精神の最高の緊張の姿は、どうあるべきかといふ問題である。そこで、われわれは死についての、もつともむづかしい問題にぶつからざるをえない。われわれにとつて、もつとも正しい死、われわれにとつてみづから選びうる、正しい目的にそうた死といふものは、はたしてあるのであらうか。三島由紀夫“葉隠入門”より

23

人間が国家の中で生を営む以上、そのやうな正しい目的だけに向かつて自分を限定することができるであらうか。またよし国家を前提にしなくても、まつたく国家を超越した個人として生きるときに、自分一人の力で人類の完全に正しい目的のための死といふものが、選び取れる機会があるであらうか。そこでは死といふ絶対の観念と、正義といふ地上の現実の観念との齟齬が、いつも生ぜざるをえない。そして死を規定するその目的の正しさは、また歴史によつて十年後、数十年後、あるひは百年後、二百年後には、逆転し訂正されるかもしれないのである。“葉隠”は、このやうな煩瑣な、そしてさかしらな人間の判断を、死とは別々に置いていくといふことを考へてゐる。なぜなら、われわれは死を最終的に選ぶことはできないからである。だからこそ“葉隠”は、生きるか死ぬかといふときに、死ぬことをすすめてゐるのである。それはけつして死を選ぶことだとは言つてゐない。なぜならば、われわれにはその死を選ぶ基準がないからである。三島由紀夫“葉隠入門”より

24

われわれが生きてゐるといふことは、すでに何ものかに選ばれてゐたことかもしれないし、生がみづから選んだものでない以上、死もみづから最終的に選ぶことができないのかもしれない。では、生きてゐるものが死と直面するとは何であらうか。“葉隠”はこの場合に、ただ行動の純粋性を提示して、情熱の高さとその力を肯定して、それによつて生じた死はすべて肯定している。それを“犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道”だと呼んでゐる。死について“葉隠”のもつとも重要な一節である。“武士道といふは、死ぬ事と見付けたり”といふ文句は、このやうな生と死のふしぎな敵対関係、永久に解けない矛盾の結び目を、一刀をもつて切断したものである。“図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当ることのわかることは、及ばざることなり”図に当たるとは、現代のことばでいへば、正しい目的のために正しく死ぬといふことである。その正しい目的といふことは、死ぬ場合にはけつしてわからないといふことを“葉隠”は言つてゐる。三島由紀夫“葉隠入門”より

25

“我人、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし”、生きてゐる人間にいつも理屈がつくのである。そして生きてゐる人間は、自分が生きてゐるといふことのために、何らかの理論を発明しなければならないのである。したがつて“葉隠”は、図にはづれて生きて腰ぬけになるよりも、図にはづれて死んだはうがまだいいといふ、相対的な考へ方をしか示してゐない。“葉隠”は、けつして死ぬことがかならず図にはづれないとは言つてゐないのである。ここに“葉隠”のニヒリズムがあり、また、そのニヒリズムから生まれたぎりぎりの理想主義がある。われわれは、一つの思想や理論のために死ねるといふ錯覚に、いつも陥りたがる。しかし“葉隠”が示してゐるのは、もつと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さへも、人間の死としての尊厳を持つてゐるといふことを主張してゐるのである。もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくだらうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。三島由紀夫“葉隠入門”より

618

  • 日本人本来の精神構造の中においては、エロース(愛)とアガペー(神の愛)は一直線につながつてゐる。もし女あるひは若衆に対する愛が、純一無垢なものになるときは、それは主君に対する忠と何ら変はりない。三島由紀夫“葉隠入門”より男の世界は思ひやりの世界である。男の社会的な能力とは思ひやりの能力である。武士道の世界は、一見荒々しい世界のやうに見えながら、現代よりももつと緻密な人間同士の思ひやりのうへに、精密に運営されてゐた。三島由紀夫“葉隠入門”より
  • 619

  • 忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかはりに、無料の忠告なら湯水のごとくそそいで惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめつたになく、人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、恨みをかふことに終はるのが十中八、九である。三島由紀夫“葉隠入門”より思想は覚悟である。覚悟は長年にわたつて日々確かめられなければならない。三島由紀夫“葉隠入門”より
  • 620

  • 長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、時期はかならずしも選ぶことができない。それは向かうからふりかかり、おそつてくるのである。そして生きるといふことは向かうから、あるひは運命から、自分が選ばれてある瞬間のために準備することではあるまいか。三島由紀夫“葉隠入門”より“強み”とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである。三島由紀夫“葉隠入門”より
  • 621

  • エゴティズムはエゴイズムとは違ふ。自尊の心が内にあつて、もしみづから持すること高ければ、人の言行などはもはや問題ではない。人の悪口をいふにも及ばず、またとりたてて人をほめて歩くこともない。そんな始末におへぬ人間の姿は、同時に“葉隠”の理想とする姿であつた。三島由紀夫“葉隠入門”よりもし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくだらうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。三島由紀夫“葉隠入門”より
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  • 武士とは死の職業である。どんな平和な時代になつても、死が武士の行動原理であり、武士が死をおそれ死をよけたときには、もはや武士ではなくなるのである。三島由紀夫“葉隠入門”より
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  • 武士とは死の職業である。どんな平和な時代になつても、死が武士の行動原理であり、武士が死をおそれ死をよけたときには、もはや武士ではなくなるのである。 三島由紀夫“葉隠入門”より
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      三島由紀夫“葉隠入門”より

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