三島由紀夫“文武両道”より

34

剣道は柔道とともに、体力が必要であることはむろんであるが、柔道は一見強さうな人は実際に強いけれど、剣道は見ただけでは分らず、合せてみてはじめて非常に強かつたりする“技のおもしろさ”がある。それにスピードと鋭さがあるので僕の性にあつてゐる。また剣道は、男性的なスポーツで、そのなかには日本人の闘争本能をうまく洗練させた一見美的なかたちがある。西洋にもフェンシングといふ闘争本能を美化した格技があるが、本来、人間はこの闘争本能を抑圧したりするとねちつこくいぢわるになるが、闘争本能は闘争本能、美的なものに対する感受性はさういふものと、それぞれ二つながら自己のなかで伸したいといふ気持があるものです。さらに剣道には伝統といふものがある。稽古着にしたつて、いまわれわれが着てるものは、幕末の頃からすこしも変つてゐない。また独特の礼儀作法があつて、スポーツといふよりか、何か祖先の記憶につながる――たとへば相手の面をポーンと打つとき、その瞬間にさういふ記憶がよみがへるやうな感じがする。三島由紀夫“文武両道”より

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これがテニスなんかだと、自分の祖先のスポーツといふ気はしない。だから剣道ほど精神的に外来思想とうまく合はない格技はないでせう。たとへば、共産主義とか、あるひはほかの思想でもいいが、西洋思想と剣道をうまくくつつけようとしてもうまくくつつかない。共産党員で剣道をやつてゐる者があるかも知れないが、その人は自分の中ですごい“ギャップ”を感じることでせう。僕は自分なりに小さい頃から日本の古典文学が非常に好きでしたし、さういふ意味で、剣道をやつてゐても自分の思想との矛盾は感じない。戦後、インテリ層の中で、“これで新らしい時代がきたんだ、これからはなんでも頭の勝負でやるんだ……”といふ時代があつた。その頃僕は、僕を可愛がつてくれた故岸田国士先生に“これから文武両道の時代だ……”といつてまはりの人に笑はれたことがある。当時、先生のまはりにゐた人達にしてみれば、新らしい時代がきたといふのに、なんで古めかしいことをいふと思つたのでせう。三島由紀夫“文武両道”より

36

元来、男は女よりバランスのくづれやすいものだと僕は思つてゐる。女は身体の真中に子宮があつて、そのまはりにいろんな内蔵が安定してゐて、そのバランスは大地にしつかりと結びついてゐる。男は、いつもバランスをとつてゐないと壊れやすく極めて危険な動物です。したがつてバランスをとるといふ考へからいけば、いつも自分と反対のものを自分の中にとり入れなければいけない。(私はさういふ意味で文武両道といふ言葉をもち出した)。さうすると、軍人は文学を知らなければならないし、文士は武道も、といふやうになる。実はそれが全人間的といふ姿の一つの理想である。その点、むかしの軍人は漢学の教養もあり、語学などのレベルも高かつた。私はいま二・二六事件の将校のことを研究してゐますが、当時の将校は実に高い教養の持主が多かつたと思ふ。末松太平といふ方の“私の昭和史”(みすず書房刊)なんかみると、実にすばらしい文章で、いまどきのかけ出しの作家などはちよつと足元にも及ばない。ああいふ立派な文章を書くには、よほどの教養が身につかなければ書けないものです。三島由紀夫“文武両道”より

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また、文士も、漢学を学び武道に励むといつた工合で、全人間的ないろいろな教養を身につけてゐた。ところが大正に入り昭和になつてくると、この傾向はだんだんやせ細つてきてバランスが崩れ片輪になつてきた。そして大東亜戦争の頃の日本人の人間像といふものは、一見非常に立派なやうですが、実際はバラバラであつた。近代社会の毒を受けたかたちの人間が多かつた時代です。つまり先にいつた文武両道的な――自分に欠けたものをいつも補ひたい気持、さういふ気持がなくなつてゐたのです。最近はさらにかういふ考へ方がなくなつてゐる。また余裕もないだらう。環境も変り、いまの生活では、静かな部屋で読者するといふこと自体何かぜいたくになつてゐる。子供がゐたり、テレビがうるさかつたり、なかなかわれわれの生活環境はゆつくりと落ちつかせてくれない。しかし、僕は思ふのだが本を読むにしても本当に読む気があれば必ず読めるものだ。とかくいまは無理をするといふことを一般に避けるやうになつてきてゐる。三島由紀夫“文武両道”より

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そこで、またバランスのことにもどるが、一般に美といふ観点からも“バランス”は大事である。古いギリシャ人の考へは、人間といふものは、神様がその言動や価値といふものをハカリでちやんと計つてゐて、一人一人の人間の中の特性が、あまりきはだちすぎてゐると、神の領域にせまつてくる、として神様はピシャつと押へる。すべての面で、このやうに一人一人の人間を神様はじつとみてゐるといふのですね。人間のこの行為をがう慢といつてゐた。人間が神に対してあまりがう慢すぎるといふわけです。このやうな考へ方は、当時ポリス(都市国家)といふ小さな社会で均衡を保つた政治生活をおくる必要から生れたものと思ふが、なかなかおもしろい考へ方です。人間が知育偏重になれば知識だけが上がり、体育偏重になれば体力だけがぐつと上がる。――これはバランスがくづれるもとで、神様はこのことを、蔭でみてゐて罰する。だから理想的に美しい人間像といふのは、あくまで精神と肉体のバランスのとれた、文武両道にひいでたものでなければないといふわけです。三島由紀夫“文武両道”より

72

衛藤瀋吉氏の或る論文で“間接侵略に真に対抗しうるものは武器ではない。国民個々の魂である”といふ趣旨があつて、私も全く同感だが、そこに停滞してゐては単なる精神主義に陥る惧れがあり、魂を振起するには行動しなければならない。動かない澱んだ魂は、実は魂ではない。この点で私の考へは陽明学の知行合一である。又“自らの手で国を守る気概”といふ自民党のスローガンは立派だが、では一体何をするかといへば、国民一人々々は税金を払つて三次防を認めればよい、といふのでは、戦後の経済主義を一歩も出ず、次元の低い傭兵思想にすぎない。私はひたすら“文武両道”といふ古い言葉で、この両様の機会主義に反抗して来たのである。今や空前の素人時代、軍事問題防衛問題も、玄人のほかに、熱烈な素人の厚い層があつてよいではないか。因みに一言つけくはへれば、私は戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の富)だと考へる者である。三島由紀夫“わが“自主防衛”――体験からの出発”より

332

私の肉体はいはば私のマイ・カーだつた。この河は、マイ・カーのさまざまなドライヴへ私を誘ひ、今まで見なかつた景色が私の体験を富ませた。しかし肉体には、機械と同じやうに、衰亡といふ宿命がある。私はこの宿命を容認しない。それは自然を容認しないのと同じことで、私の肉体はもつとも危険な道を歩かされてゐるのである。三島由紀夫“無題(“三島由紀夫展”案内文 肉体の河)”よりこの河と書物の河とは正面衝突する。いくら“文武両道”などと云つてみても、本当の文武両道が成立つのは、死の瞬間にしかないだらう。しかし、この行動の河には、書物の河の知らぬ涙があり血があり汗がある。言葉を介しない魂の触れ合ひがある。それだけにもつとも危険な河はこの河であり、人々が寄つて来ないのも尤もだ。この河は農耕のための灌漑のやさしさも持たない。富も平和ももたらさない。安息も与へない。……ただ、男である以上は、どうしてもこの河の誘惑に勝つことはできないのである。三島由紀夫“無題(“三島由紀夫展”案内文 行動の河)”より

847

日本人は絶対、民主主義を守るために死なん。ぼくはアメリカ人にも言うんだけど、“日本人は民主主義のために死なないよ”と前から言っている。今後もそうだろうと思う。三島由紀夫福田恆存との対談“文武両道と死の哲学”より何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思うんだ。本質的な問題は。というのはね、やっぱりキリスト教対ヘレニズムというようなもんなんだよ。いまわれわれが当面している問題は。結局ね、世界をよくしようとか、未来を見ようとかいう考えと、それから、未来はないんだけれども、文化というものがわれわれのからだにあるんだという考えと、その二つの対立だよ。三島由紀夫福田恆存との対談“文武両道と死の哲学”より“文化を守る”ということは、“おれを守る”ということだよ。三島由紀夫福田恆存との対談“文武両道と死の哲学”より

848

十年、五十年単位の考えは、絶対に必要なことだ。なぜかというと、十年、五十年と考えると、今日始めなきゃだめなんだよ。だから一番緊急なことなんだよ。三島由紀夫福田恆存との対談“文武両道と死の哲学”より一番長い経過を要する仕事を今日始めて、そしてあしたはだね、三年先のことを始めるというのが、ぼくは一番現実的な考えだと思うね。三島由紀夫福田恆存との対談“文武両道と死の哲学”より

849

ぼくは文化というものはね、変な比喩だが、金とおんなじことだと思う。とにかく、あぶないときにどっかに置いておかなければ、いつもこわされちゃう。こんなもろい、こんなものはない。僕はいわば文化の金本位制論者だ。日本では、昔から金について一番もろくて弱かった独占資本的財閥、戦前のそういう連中はね、どんなインテリよりもぼくは、実際に敏感だったと思いますよ。それは昭和の歴史を見てもよくわかりますがね。文化人というのはいつものんきなんだが、資本家が金をこわがるように、どうして文化人は文化というものの、もろさ、弱さ、はかなさ、というものを感じないんだろうかね。三島由紀夫福田恆存との対談“文武両道と死の哲学”より

850

いまでもぼくは、文化というものは、ほんとにどんな弱い女よりもか弱く、どんな破れやすい布よりも破れやすい、もう手にそうっと持ってにゃならんのだと思いますね。そっからすべてものの危機感がくるんだし、それで、そのためには自分のからだを投げ出してもいいと思うしね。三島由紀夫福田恆存との対談“文武両道と死の哲学”より文化がどんなに変様されて、歪曲されても、生きのびるほど強いもんだということは結果論です。三島由紀夫福田恆存との対談“文武両道と死の哲学”より

851

天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレーションの最後の救世主として、そこにいなけりゃならない。それをいまから準備していなければならない。それはアンティエゴイズムであり、アンティ近代化であり、アンティ工業化であるけど、決して古き土地制度の復活でもなければ、農本主義でもない。(中略)天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、とにかく“お祭”だ、ということです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です。三島由紀夫福田恆存との対談“文武両道と死の哲学”より

852

エリザベスは、亭主が自分の部屋に電話を引いたり、テレビをつけたり、ボタンを押すと飛び上がる椅子をつけたりするのに、自分は、まだ十八世紀のお茶の作法で、百メートル先から女官たちが手から手へつないだお茶を持って来て、冷えたお茶を飲んでいる。自分の部屋には電話がない。ぼくは、そういうことが天皇制だろうと思うんです。日本の皇室がその点でわれわれを納得させる存在理由は日ましに稀薄になっている。つまりわれわれが近代化の中でこれだけ苦しんで、どこかでお茶を十八世紀の作法で飲んでいる人がいなければ、世界は崩壊するんだよ。三島由紀夫福田恆存との対談“文武両道と死の哲学”より

853

世界の行く果てには、福祉国家の荒廃、社会主義国家の嘘しかないとなれば、何がほしいだろう。それはカソリックならカソリックかもしれない。だけど、日本の天皇というのはいいですよ。頑張ってれば世界的なモデルケースになれると思う。それが八紘一宇だと思うんだよ。三島由紀夫福田恆存との対談“文武両道と死の哲学”より

995

いくら“文武両道”などと云つてみても、本当の文武両道が成立つのは、死の瞬間にしかないだらう。しかし、この行動の河には、書物の河の知らぬ涙があり血があり汗がある。言葉を介しない魂の触れ合ひがある。それだけにもつとも危険な河はこの河であり、人々が寄つて来ないのも尤もだ。三島由紀夫“行動の河(三島由紀夫展)”より

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