三島由紀夫“団蔵・芸道・再軍備”より

26

芸術における虚妄の力は、死における虚妄とよく似てゐる。団蔵の死は、このことを微妙に暗示してゐる。芸道は正にそこに成立する。芸道とは何か?それは“死”を以てはじめてなしうることを、生きながら成就する道である、といへよう。これを裏から言ふと、芸道とは、不死身の道であり、死なないですむ道であり、死なずにしかも“死”と同じ虚妄の力をふるつて、現実を転覆させる道である。同時に、芸道には、“いくら本気になつても死なない”“本当に命を賭けた行為ではない”といふ後めたさ、卑しさが伴ふ筈である。現実世界に生きる生身の人間が、ある瞬間に達する崇高な人間の美しさの極致のやうなものは、永久にフィクションである芸道には、決して到達することのできない境地である。“死”と同じ力と言つたが、そこには微妙なちがひがある。いかなる大名優といへども、人間としての団蔵の死の崇高美には、身自ら達することはできない。彼はただそれを表現しうるだけである。三島由紀夫“団蔵・芸道・再軍備”より

27

ここに、俳優が武士社会から河原乞食と呼ばれた本質的な理由があるのであらう。今は野球選手や芸能人が大臣と同等の社会的名士になつてゐるが、昔は、現実の権力と仮構の権力との間には、厳重な階級的差別があつた。しかし仮構の権力(一例が歌舞伎社会)も、それなりに卑しさの絶大の矜持を持ち、フィクションの世界観を以て、心ひそかに現実社会の世界観と対決してゐた。現代社会に、このやうな二種の権力の緊張したひそかな対決が見られないのは、一つは、民主社会の言論の自由の結果であり、一つは、現実の権力自体が、すべてを同一の質と化するマス・コミュニケーションの発達によつて、仮構化しつつあるからである。さて、芸能だけに限らない。小説を含めて文芸一般、美術、建築にいたるまで、この芸道の中に包含される。(小説の場合、芸道から脱却しようとして、却つて二重の仮構のジレンマに陥つた“私小説”のやうな例もあるが、ここではそれに言及する遑(いとま)はない)三島由紀夫“団蔵・芸道・再軍備”より

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芸道には、本来“決死的”などといふことはありえない。ギリギリのところで命を賭けないといふ芸道の原理は、芸道が、とにかく、石にかじりついても生きてゐなければ成就されない道だからである。“葉隠”が、“芸能に上手といはるゝ人は、馬鹿風の者なり。これは、唯一偏に貪着(とんちやく)する故なり、愚痴ゆゑ、余念なくて上手に成るなり。何の益にも立たぬものなり”と言つてゐるのは、みごとにここを突いてゐる。“愚痴”とは巧く言つたもので、愚痴が芸道の根本理念であり、現実のフィクション化の根本動機である。さて、今いふ芸術が、芸道に属することをいふまでもないが、私は現代においては、あらゆるスポーツ、いや、武道でさへも、芸道に属するのではないかと考へてゐる。それは“死なない”といふことが前提になつてゐる点では、芸術と何ら変りないからである。三島由紀夫“団蔵・芸道・再軍備”より

29

武士道とは何であらう?私はものごとに“道”がつくときは、すでに“死”の原理を脱却しかかり、しかも死の巨大な虚妄の力を自らは死なずに利用しはじめる時であらう、と考へる。武士道は、日常座臥、命のやりとりをしてゐた戦国時代ではなくて、すでに戦国の影が遠のき、日常生活における死が稀薄になりつつあつた時代に生れた。真に死に直面してゐた戦闘集団には、それこそ日々の“決死”の行為と、その死への心構へと、死を前にした人間の同志的共感がすべてである。それは決して現実を仮構化する暇などはもたない。それこそが、現実の側の権力のもつとも純粋な核であり、あらゆる芸道的なものを卑しめる資格があるのは、このやうな、死に直面した戦闘集団に他ならない。それさへ、現実に権力を握れば、現実の仮構化をもくろむ芸道の原理に対抗するに自分も亦、こつそりと現実の仮構化を模倣しつつ、しかも芸道を弾圧せねばならない。これが現実権力の腐敗である。三島由紀夫“団蔵・芸道・再軍備”より

30

私が決して腐敗を知らぬ、永遠に美しい、永遠に純粋至上な“現実権力”として認めるものは、あの挫折した二・二六事件の、青年将校の同志的結合である。末松太平氏の“私の昭和史”の次のやうな一節を読むがいい。天皇の軍隊を天皇の命令なくして、私的にクーデターなどに使ふことに反対してゐた高村中尉(著者の学友)が、つひに著者に説得されて、理屈よりも友情が勝ち、次のやうに言ふところである。““(略)…貴様がやることなら、おれもやるよ。しかしやるまで暇があるなら、そのあいだにできるだけ、そのおれの疑念を晴らすよう教えてくれ。疑念が晴れなければやらないというのじゃないよ””この最後の一句のいさぎよい美しさこそ、永遠に反芸道的なものである。そして芸道を河原乞食と卑しむことができるものは、このやうな精神だけであり、固定して腐敗した政治権力には、そのやうな資格はない。三島由紀夫“団蔵・芸道・再軍備”より

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さて、死に直面する戦闘集団の原理は、多少とも武士道に影を宿し、泰平無事の元禄の世にも、赤穂義士の義挙と、“葉隠”の著作を残した。それが、命のやりとりを再び復活した幕末から維新を経て、人々の心に色濃くのこつてゐた。このやうな戦闘集団の同志的結合は、要するに、戦野に同じ草を枕にし、同じ飯盒(はんがふ)の飯を喰ひ、死の機会は等分に見舞ふところの、上長と兵士の間の倫理を要請した。飛躍するやうだが、旧憲法の統帥大権の本質はここにあり、武士道を近代社会へつなぐ唯一のパイプであつたと思はれるのである。史家は、明治憲法制定の時、薩摩閥が、国務大権を握つたのに対抗して、長州閥が、天皇に直属する統帥大権を握つて、国務大権から独立した兵馬の権をわがものにしようとした、と説明するが、政治史の心理的ダイナミズムはそのやうに経過したとしても、統帥大権の根本精神は、もつと素朴な、戦闘集団の同志的結合の純粋性を天皇に直属せしめるところにあつたと思はれる。三島由紀夫“団蔵・芸道・再軍備”より

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二・二六事件の悲劇は、統帥大権の純粋性を信じた青年将校と、英国的立憲君主の教育を受けた文治的天皇との、甚だしい齟齬にあつたが、私が近ごろ再軍備の論をきくにつれ、いつも想起するのは、この統帥大権の問題である。シヴィリアン・コントロールとたやすく言ふが、真に死に直面した戦闘集団は、芸道的原理に服した現実の権力のために死ぬことができるであらうか?早い話が、“死ぬこととみつけた”武士道は、“死なないですむ”芸道のために、死ぬことができるであらうか?“死なないですむ”芸道的原理が現代を支配し、大臣も芸能人も野球選手も、同格同質の社会的名士と扱はれ、したがつてそこに、現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との、真の対決闘争もなく、西欧的ヒューマニズムが、唯一の正義として信奉されてゐるやうな時代に、シヴィリアン・コントロールが、真に日本人を死なせる原理として有効であらうか、私は疑問なきを得ない。もちろん、シヴィリアン・コントロールは、天皇の代りに、総理大臣のために死ぬことではない。三島由紀夫“団蔵・芸道・再軍備”より

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  1. salvatore forex

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